人生の目的

2004年1月20日
五木寛之のエッセイに「人生の目的」と言うのがある。5年くらい前の本なのだが、今更読み出してみた。まだ50ページくらいしか読んでないので、なんとも言えないのだけど、
五木寛之は実は初めて読むのです。
おこがましいことを言うようで恐縮だが、
50ページまでの感想では、率直に言うと、
名高い作家のわりに、期待はずれ。
 話が一向に先に進まないのだ。
エッセイなんて言う物は、書き方も趣旨も作者の自由で、内容の流れも結論も、こうあるべき、なんてものはない。自由なのだ。
すなわち「話が先に進まないといけない」という決まりはないし、結論の出ない思想を訴えるメッセージも時には必要なのだろう。特に「人生の目的」という大きなテーマを掲げただけに、熟年した作家でも途方に暮れながら書いている、と言うのが文面から伝わってくる。
でも、何か私にはしっくり来ないのです。
 この人は何を言いたいのだろう、これから読み進めればわかるのだけど、きっと結論的に
「人生に決められた目的はない。だからこそ自分自身でしっかり目的を作り歩いて行こう。」みたいなことなんじゃないかと思う。
 
もしそれがこの人の言いたいことなら、私の考えとは全くかけ離れている。
決められた目的がなくして、自分で目的を作って歩いて行けるほど、人間は強くないだろう、
と言うのが私の考えだ。
 そして、強くあってはいけない、とも思っている。世の中は「強い人」というものを褒め称えて、お手本として掲げる傾向があるけれど、
「強い」と言うことはそんなに尊敬にあたいすることだろうか、と私は思う。
 たいていの人間は強くない、そして強くなりたい、と思う。
でも強くなる事から生まれる物は何だろう、
それは頑固さと傲慢さと妙な自信ではないか。このすべては成長の妨げになるものではないだろうか。
よく考えてみればわかるはずだ。

強くなろうとしなくても、人生を生きているうちに色んな経験を通して、人は知らずに強くなってしまう。むしろ強くなった自分を見て恥じるべきだと私は思っている。
 強くなって、自信がついて、自分の足で歩けるようになるのを実感していくうちに、私は情けないと思う。「おまえは何様だ?」と自問自答する。人間、一人で生きていけるほど強くなったら終わりだ。
もうそんな人生に価値はないだろう。
人間本来の目的から大きく外れてしまった、
もっともかわいそうな人生だ。

 強いということは、自我が強いということなのだ。本来人間は弱いものだ。
人と支え合って行かなくては、生きていけないほど、もろいものなのだ。
それが自然な姿であり、そうあるべきだし、そんな人間がもっとも尊いものだと思っている。
強くなれば支え合いが不要になる。
これは不自然なことなのだ。
何だか書きすぎてしまった。
この本を全部読み終わってからじっくり
感想と意見を書きたいと思う。



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