蒔いた種の刈り取り

2004年3月28日
7歳年下の弟が公立高校入試を終え、学区内でトップの高校に合格した。これは私にとっても嬉しいことだった。

私の中学受験は思い返せば定期テストの延長線上にあったようなものだった。私は人一倍、必死になることがキライで、
地道な努力というものが大嫌いだった。
幸い必死にならなくても学年ではいつも上位の成績を取れる程度の学力を持っていたので、それ以上を望もうとは思わなかった。
高校受験も、努力しなくてもある程度のレベルの高校には入れるとわかっていたので、「あと少し努力してトップ校を狙おう」とは思わなかった。

その結果、何の努力をすることもなく、それなりのレベルの進学校に合格した。しかし、その高校はあくまでも「それなりの進学校」であり、エリートのためのトップ校ではなかった。
努力なしでトップ校に入れるほどの実力は私には無かったのだ。

でも弟はそのトップ校に合格した。
弟と私の持っている能力に、はっきり言ってさほどの違いはなかった。同じ遺伝子を受け継いでいるのだから、当然同じくらいの能力なのだ。むしろ知能に関しては私の方が高い能力を持っていると父も母も思っていた。
その弟が簡単にトップ校に合格したはずはなかった。
弟とは一緒に暮らしてはいないし、勉強する姿を見ていたわけではないのに、彼がどんな受験期を過ごしたか、どのくらいの努力をして、どのくらいのプレッシャーを持っていたか、そういったことが私には手に取るようにわかる。

血をわけているとは、なるほどこういうことなのか、と私は思った。

彼は努力した。あと一歩の努力をすればトップに入れる。
あと一歩の努力をしなかったとしても、それなりのレベルの高校には入れるのに、彼はその一歩の努力を怠らなかった。
私が7年前にしなかった努力だ。
しなかったのではない、私には出来なかった。

7年たって、弟の姿を見て、初めて私は気づいたのだ。
私のしたことは堕落以外の何者でも無かった。
弟に出来たことが私には出来なかったのだ。

これは私の欠点であり、弱さであり、
私の人生そのものだった。

私は今、与えられた能力を最大限に生かし、努力によってさらに可能性を広げた弟を見て、自分を恥じた。
努力無しで上位に入れた私の学力は、もともと持っている能力なのだから、別に私の力では無かった。
私はその恵まれた能力を生かして、さらに伸ばす努力をしなかった。与えられたものだけで満足した。
それどころか、そのもともと持っていた能力さえ、自分の力で手に入れた地位かのように振る舞った。

結果的に私のこの怠慢は、その後の自分の人生に報酬として現れた。
自分でまいた種の刈り取りは、自分で行わなければいけない。
逃げてはいけなく、その刈り取りは長い。

私は今、過去の自分の誤って蒔いた種の刈り取りをしているのだ。
決してすぐ終わるものではない。
何年もかけて刈り取るのだ。
過ちに気づいて、反省したからといって
出直せるものではない。

刈り取りがおわるまではじっと耐えるのだ。

でも、今の自分のなんとも言えないこの心の痛みや
労働の苦しみが過去の報酬だと思うと、
なんとなく、やりきれなさが消え、
当然の報いだという諦めと同時に
深い慰めを受けている。

以上、弟を見て学んだこと。

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