人生の目的
2004年1月20日五木寛之のエッセイに「人生の目的」と言うのがある。5年くらい前の本なのだが、今更読み出してみた。まだ50ページくらいしか読んでないので、なんとも言えないのだけど、
五木寛之は実は初めて読むのです。
おこがましいことを言うようで恐縮だが、
50ページまでの感想では、率直に言うと、
名高い作家のわりに、期待はずれ。
話が一向に先に進まないのだ。
エッセイなんて言う物は、書き方も趣旨も作者の自由で、内容の流れも結論も、こうあるべき、なんてものはない。自由なのだ。
すなわち「話が先に進まないといけない」という決まりはないし、結論の出ない思想を訴えるメッセージも時には必要なのだろう。特に「人生の目的」という大きなテーマを掲げただけに、熟年した作家でも途方に暮れながら書いている、と言うのが文面から伝わってくる。
でも、何か私にはしっくり来ないのです。
この人は何を言いたいのだろう、これから読み進めればわかるのだけど、きっと結論的に
「人生に決められた目的はない。だからこそ自分自身でしっかり目的を作り歩いて行こう。」みたいなことなんじゃないかと思う。
もしそれがこの人の言いたいことなら、私の考えとは全くかけ離れている。
決められた目的がなくして、自分で目的を作って歩いて行けるほど、人間は強くないだろう、
と言うのが私の考えだ。
そして、強くあってはいけない、とも思っている。世の中は「強い人」というものを褒め称えて、お手本として掲げる傾向があるけれど、
「強い」と言うことはそんなに尊敬にあたいすることだろうか、と私は思う。
たいていの人間は強くない、そして強くなりたい、と思う。
でも強くなる事から生まれる物は何だろう、
それは頑固さと傲慢さと妙な自信ではないか。このすべては成長の妨げになるものではないだろうか。
よく考えてみればわかるはずだ。
強くなろうとしなくても、人生を生きているうちに色んな経験を通して、人は知らずに強くなってしまう。むしろ強くなった自分を見て恥じるべきだと私は思っている。
強くなって、自信がついて、自分の足で歩けるようになるのを実感していくうちに、私は情けないと思う。「おまえは何様だ?」と自問自答する。人間、一人で生きていけるほど強くなったら終わりだ。
もうそんな人生に価値はないだろう。
人間本来の目的から大きく外れてしまった、
もっともかわいそうな人生だ。
強いということは、自我が強いということなのだ。本来人間は弱いものだ。
人と支え合って行かなくては、生きていけないほど、もろいものなのだ。
それが自然な姿であり、そうあるべきだし、そんな人間がもっとも尊いものだと思っている。
強くなれば支え合いが不要になる。
これは不自然なことなのだ。
何だか書きすぎてしまった。
この本を全部読み終わってからじっくり
感想と意見を書きたいと思う。
五木寛之は実は初めて読むのです。
おこがましいことを言うようで恐縮だが、
50ページまでの感想では、率直に言うと、
名高い作家のわりに、期待はずれ。
話が一向に先に進まないのだ。
エッセイなんて言う物は、書き方も趣旨も作者の自由で、内容の流れも結論も、こうあるべき、なんてものはない。自由なのだ。
すなわち「話が先に進まないといけない」という決まりはないし、結論の出ない思想を訴えるメッセージも時には必要なのだろう。特に「人生の目的」という大きなテーマを掲げただけに、熟年した作家でも途方に暮れながら書いている、と言うのが文面から伝わってくる。
でも、何か私にはしっくり来ないのです。
この人は何を言いたいのだろう、これから読み進めればわかるのだけど、きっと結論的に
「人生に決められた目的はない。だからこそ自分自身でしっかり目的を作り歩いて行こう。」みたいなことなんじゃないかと思う。
もしそれがこの人の言いたいことなら、私の考えとは全くかけ離れている。
決められた目的がなくして、自分で目的を作って歩いて行けるほど、人間は強くないだろう、
と言うのが私の考えだ。
そして、強くあってはいけない、とも思っている。世の中は「強い人」というものを褒め称えて、お手本として掲げる傾向があるけれど、
「強い」と言うことはそんなに尊敬にあたいすることだろうか、と私は思う。
たいていの人間は強くない、そして強くなりたい、と思う。
でも強くなる事から生まれる物は何だろう、
それは頑固さと傲慢さと妙な自信ではないか。このすべては成長の妨げになるものではないだろうか。
よく考えてみればわかるはずだ。
強くなろうとしなくても、人生を生きているうちに色んな経験を通して、人は知らずに強くなってしまう。むしろ強くなった自分を見て恥じるべきだと私は思っている。
強くなって、自信がついて、自分の足で歩けるようになるのを実感していくうちに、私は情けないと思う。「おまえは何様だ?」と自問自答する。人間、一人で生きていけるほど強くなったら終わりだ。
もうそんな人生に価値はないだろう。
人間本来の目的から大きく外れてしまった、
もっともかわいそうな人生だ。
強いということは、自我が強いということなのだ。本来人間は弱いものだ。
人と支え合って行かなくては、生きていけないほど、もろいものなのだ。
それが自然な姿であり、そうあるべきだし、そんな人間がもっとも尊いものだと思っている。
強くなれば支え合いが不要になる。
これは不自然なことなのだ。
何だか書きすぎてしまった。
この本を全部読み終わってからじっくり
感想と意見を書きたいと思う。
肉眼でみえるもの
2004年1月10日汚い言葉は捨て去って
洗練された言葉だけを口にする
破滅へ向かう道を遮るものがあれば
落とし穴にハマらずに生きてゆけるのではないか
真実を映し出す鏡だけを覗き
反射するものに気をとられてはならない
浮き足立つことも
ためらい傷を作ることも
決して有意義なことではない
価値があるようで
何の値打ちもない偽物に気を付ける
心の奥の神経を
とぎすませていなくては
見落とすであろう
現実というのは
そうした困難なものなのでは?
近視でも乱視でもない
望遠鏡も双眼鏡も使わずに
見えるもの
肉眼で見えるもの
それが自然に与えられた視野ならば
それ以上のものも
またそれ以下のものも
見ようとする必要はどこにあろうか
洗練された言葉だけを口にする
破滅へ向かう道を遮るものがあれば
落とし穴にハマらずに生きてゆけるのではないか
真実を映し出す鏡だけを覗き
反射するものに気をとられてはならない
浮き足立つことも
ためらい傷を作ることも
決して有意義なことではない
価値があるようで
何の値打ちもない偽物に気を付ける
心の奥の神経を
とぎすませていなくては
見落とすであろう
現実というのは
そうした困難なものなのでは?
近視でも乱視でもない
望遠鏡も双眼鏡も使わずに
見えるもの
肉眼で見えるもの
それが自然に与えられた視野ならば
それ以上のものも
またそれ以下のものも
見ようとする必要はどこにあろうか
罪の受け継ぎ
2003年12月28日氷点という小説がある。
私の好きな三浦綾子のベストセラー小説だ。
この小説のテーマは原罪。
人間が生まれながらに持つ罪の性質。
キリスト教的には、アダムとイブが神に背いたときから、人間の罪が始まる。
その子孫がみな罪を生まれながらに持って生きることになる。
では、悪いことをしてないのに罪人なのか?生まれたばかりで善悪の知識もない赤ん坊にも罪があるというのはどういうことだ・・ということになる。
氷点の中では、夏江は娘を殺され、変わりに陽子を養女として大切に育てる。が、その陽子が我が娘を殺した犯人の子供だと知り、徐々に陽子を憎み、すくすく育つ美しい陽子に嫉妬するようになる。
陽子は、なぜ夏江が自分を憎むのかわからないけれど、自分さえ正しい人間であれば、どんな嫌がらせも、苦しみも越えて、胸を張って生きれる、という信念の元に、明るく生き続ける。
しかし自分が、殺人者の娘だと知り、陽子は
自分には汚い不正な血が流れていることを悲しみ、もう胸を張って生きられないと絶望して自殺しようとするのだ。
私はずっと、陽子の、この気持ちが理解出来なかった。親が殺人犯でも、陽子は殺人犯じゃないのだ。
なのになぜ、陽子は生きる希望をなくすのか・・私はずっとわからなかった。
でも、血を受け継ぐことは、単純なものではない。
カエルの子はカエルなのだ。
親の犯した間違いは、子供の間違いになり、そのまた子供に受け継がれる。
たとえば親が麻薬中毒になる。
「自分はそんな大人には絶対ならない」と子供は思いながら生きるだろう、でも人生の岐路に立って
ふと我に返ると「所詮自分は薬中人間の子供だ、
自分もまたその程度の人間だ」と自暴自棄のさなかで、その子もまた薬に手を出すかも知れない。
これが血を受け継ぐ、と言うことなのではないだろうか。
最初に薬に手を出し、悪い見本となった親が悪いのか、親の不正のせいにして、自分に負けた子供が弱いのか、それはわからないけれど、
親が過去に犯した過ちが子供の人生のつまづきとなったのは事実である。
自分の軽はずみな行動がその後の誰かの人生を左右する事もある。
「私の問題だ、誰にも迷惑かけてない。
私が何をしようと私の勝手だ。」
本当にそうだろうか。
運命というものは本当に恐ろしく
予期せぬ方向へ導いていくものなのだ。
とくに、子供の人生を大きく変える。
そう思うと、私は子孫を残すことは
罪のように感じた。
罪を犯した人間が生む子は、また罪人なのだ。
自分の犯した過ちが、子供の人生を呪うこともあるのだ。
一生、ひとりでひっそりと生きる以外に、
人に迷惑をかけない手段はない。
人間にそれが可能だろうか。
答えはまだ出ない。
私の好きな三浦綾子のベストセラー小説だ。
この小説のテーマは原罪。
人間が生まれながらに持つ罪の性質。
キリスト教的には、アダムとイブが神に背いたときから、人間の罪が始まる。
その子孫がみな罪を生まれながらに持って生きることになる。
では、悪いことをしてないのに罪人なのか?生まれたばかりで善悪の知識もない赤ん坊にも罪があるというのはどういうことだ・・ということになる。
氷点の中では、夏江は娘を殺され、変わりに陽子を養女として大切に育てる。が、その陽子が我が娘を殺した犯人の子供だと知り、徐々に陽子を憎み、すくすく育つ美しい陽子に嫉妬するようになる。
陽子は、なぜ夏江が自分を憎むのかわからないけれど、自分さえ正しい人間であれば、どんな嫌がらせも、苦しみも越えて、胸を張って生きれる、という信念の元に、明るく生き続ける。
しかし自分が、殺人者の娘だと知り、陽子は
自分には汚い不正な血が流れていることを悲しみ、もう胸を張って生きられないと絶望して自殺しようとするのだ。
私はずっと、陽子の、この気持ちが理解出来なかった。親が殺人犯でも、陽子は殺人犯じゃないのだ。
なのになぜ、陽子は生きる希望をなくすのか・・私はずっとわからなかった。
でも、血を受け継ぐことは、単純なものではない。
カエルの子はカエルなのだ。
親の犯した間違いは、子供の間違いになり、そのまた子供に受け継がれる。
たとえば親が麻薬中毒になる。
「自分はそんな大人には絶対ならない」と子供は思いながら生きるだろう、でも人生の岐路に立って
ふと我に返ると「所詮自分は薬中人間の子供だ、
自分もまたその程度の人間だ」と自暴自棄のさなかで、その子もまた薬に手を出すかも知れない。
これが血を受け継ぐ、と言うことなのではないだろうか。
最初に薬に手を出し、悪い見本となった親が悪いのか、親の不正のせいにして、自分に負けた子供が弱いのか、それはわからないけれど、
親が過去に犯した過ちが子供の人生のつまづきとなったのは事実である。
自分の軽はずみな行動がその後の誰かの人生を左右する事もある。
「私の問題だ、誰にも迷惑かけてない。
私が何をしようと私の勝手だ。」
本当にそうだろうか。
運命というものは本当に恐ろしく
予期せぬ方向へ導いていくものなのだ。
とくに、子供の人生を大きく変える。
そう思うと、私は子孫を残すことは
罪のように感じた。
罪を犯した人間が生む子は、また罪人なのだ。
自分の犯した過ちが、子供の人生を呪うこともあるのだ。
一生、ひとりでひっそりと生きる以外に、
人に迷惑をかけない手段はない。
人間にそれが可能だろうか。
答えはまだ出ない。
メリークリスマス!!
2003年12月24日こんな小さな存在の私を救うために
神の子が生まれてきました。
世界を救ったイエス・キリストの誕生を祝って世界中がメリークリスマスしてます。
みんなみんな素敵なクリスマスを!!!
神の子が生まれてきました。
世界を救ったイエス・キリストの誕生を祝って世界中がメリークリスマスしてます。
みんなみんな素敵なクリスマスを!!!
開き直り
2003年12月23日時間がたつのが早い、と最近よく思う。
学生の頃は感じたことのない、焦りのようなもの、高校を卒業してから、ここまでの日々があっという間だった。
高校の三年間より、卒業してからの方が長いのに、ドタバタしすぎていて、まだ高校生とたいした変わらない気分で居たら、気づけば今の高校生なんて5つくらい年下だったりして、そう思うとヒヤっとする。
卒業して四年もたったのか、それなりに大人になったのだろうか?と問いかけてみると、
きっとなったんだろうね、と誰かが答える。
本当に?と聞くと、
どうしてそんな事にこだわる必要がある?
確認してもしなくても今の自分が、等身大の自分だろう、と。
こうあるべき、と枠にはめて考えたとき、
どこかで必ず自分を否定しなくてはいけなくなる。
こうあるべき、を満たす条件の、クリアしてない部分を箇条書きで上げ連ねて、否定事項が増えて、自分にダメ印がついていく。
完璧を求めて、目標にするのは良いことかも知れない、でも結局そこから生み出す結論が
自己嫌悪であったり、卑下であったりするなら、それは自分を破滅へ導く。
反省することと、否定することでは、まるっきり違うのだ。
あっという間に時間が過ぎる、と、きっと大人は誰でもそう思っている。
そしてむなしくなったときに、ただ感傷的になって、自信をなくして、そのまま通り過ぎて、
それでいいのか。
そんなことを繰り返しているから、いつまでたっても「時間があっという間に過ぎていく」なんてぼやきながら生きることになる。
なぜそれに気づかない?
改正されない反省点を抱えて、背中に背負って
歩き続けて、また反省点を見つけて背負って、
どんどん荷物が重くなる。
それを下ろすこともなく、直すこともなく、ただただ荷物を増やして、それが歩みの妨げになるくらいなら、最初から荷物なんて背負わない方がいいのでは無いか。
反省というものは、そこから何かを得て前進するための糧にしなくては、ただの重荷になって行くものだ。
生きていれば1つ2つと汚れがついていく。
洗い流すか、吹き飛ばすか、そのくらいの
図太さをもっているようじゃないと生きてはいけないものだな。
汚れた汚れたどうしよう、と言いながら、
何もせずに恥だけを感じて生きているよりは
よっぽどマシじゃ〜ないか。
学生の頃は感じたことのない、焦りのようなもの、高校を卒業してから、ここまでの日々があっという間だった。
高校の三年間より、卒業してからの方が長いのに、ドタバタしすぎていて、まだ高校生とたいした変わらない気分で居たら、気づけば今の高校生なんて5つくらい年下だったりして、そう思うとヒヤっとする。
卒業して四年もたったのか、それなりに大人になったのだろうか?と問いかけてみると、
きっとなったんだろうね、と誰かが答える。
本当に?と聞くと、
どうしてそんな事にこだわる必要がある?
確認してもしなくても今の自分が、等身大の自分だろう、と。
こうあるべき、と枠にはめて考えたとき、
どこかで必ず自分を否定しなくてはいけなくなる。
こうあるべき、を満たす条件の、クリアしてない部分を箇条書きで上げ連ねて、否定事項が増えて、自分にダメ印がついていく。
完璧を求めて、目標にするのは良いことかも知れない、でも結局そこから生み出す結論が
自己嫌悪であったり、卑下であったりするなら、それは自分を破滅へ導く。
反省することと、否定することでは、まるっきり違うのだ。
あっという間に時間が過ぎる、と、きっと大人は誰でもそう思っている。
そしてむなしくなったときに、ただ感傷的になって、自信をなくして、そのまま通り過ぎて、
それでいいのか。
そんなことを繰り返しているから、いつまでたっても「時間があっという間に過ぎていく」なんてぼやきながら生きることになる。
なぜそれに気づかない?
改正されない反省点を抱えて、背中に背負って
歩き続けて、また反省点を見つけて背負って、
どんどん荷物が重くなる。
それを下ろすこともなく、直すこともなく、ただただ荷物を増やして、それが歩みの妨げになるくらいなら、最初から荷物なんて背負わない方がいいのでは無いか。
反省というものは、そこから何かを得て前進するための糧にしなくては、ただの重荷になって行くものだ。
生きていれば1つ2つと汚れがついていく。
洗い流すか、吹き飛ばすか、そのくらいの
図太さをもっているようじゃないと生きてはいけないものだな。
汚れた汚れたどうしよう、と言いながら、
何もせずに恥だけを感じて生きているよりは
よっぽどマシじゃ〜ないか。
interrupted
2003年12月19日 病気と人生今年の札幌は雪が降るのが遅かった。
12月に入っても地面が見えていた。
これからチラチラ降り出したとしても、
積もるまでには結構時間がかかるし、
今年は1ヶ月分くらい得したな〜なんて思っていたら、10日前後に突然ガバっと降ってきて、あっという間に例年と変わらない雪景色になった。
結局、対した得はしてなかったみたいだ。
去年もこうだった、こんな風に寒かった。
嫌でもよみがえってくる。
ちょうど一年前の昨日、12月18日に、私は生まれて初めて手術を受けて、生まれて初めて入院した。
病院を4件回って、やっと手術を受けた。
夜中に救急車で運ばれた一件目の救急病院では風邪だと言われた。
その病院は、お腹が痛くてケイレンして動けない私を追い出した、
とてもじゃないけど、激痛で全く身動きのとれない私は家に帰ることなんて出来なくて、近所の病院が始まるまで、4時間ほど友人の車の中で待った。
やっと朝になり、病院が開いたけど、今度は車から降りれない。少しでも動こうとすると激痛が走って叫ばずにはいられない。
友人とドクターと看護婦2人の4人がかりで
支えてもらって診察室に入り、注射2本、これ以上の処置はここでは出来ない、との事、
紹介状を書いてもらい、次の病院に入院するようにと言われ、移動。
3件目の病院へ着いてすぐ、入院手続きをして、パジャマを着せられ、レントゲンとCTを受ける。
撮影が終わったとたんにドクターが出てきて、
まだCTの機会に寝転がっている私に
「いますぐ手術をうけないといけないから、次の病院へ移動します。」と言う。
とにかく大急ぎで移動しないといけないとの事で、説明は救急車の中でします、と言う。
救急車の中でやっとドクターの説明があり、胃に穴が開いたらしく、腹膜炎を起こしている、腹水も溜まっているので、今すぐ開腹して
処置が必要だ、との事。
何がなんだかわからない。
家族も仕事に出ていて連絡が取れない、
ドクターがしつこく電話をかけて、何とか母が手術の直前に到着した。
そこから先はひどかった。
ただの胃穿孔だと聞かされていた私は、
年内に退院出来ると思って、術後の痛みにも何とか耐えて入院生活を楽しんでいた。
1週間後の12月26日、ドクターに呼ばれる。退院が決まったのだろうか。
それにしても、わざわざそんなことでドクターが患者を呼び出すわけがない。
母も一緒に、詰め所に入った。
ドクターが話し出す。
聞いているうちに、言わんとしていることは伝わってきた。
でも、まさか・・・そんなバカなことがあるわけない。半信半疑でドクターと母の顔をかわるがわる見る。母は無表情で、まっすぐ前を見ていて、私の顔を見ようとしない。
ドクターは下ばかり見て目を合わせてくれない。ひとりで一瞬のうちにいろんな事を巡らせていたので、ドクターが何を話していたか、あんまり覚えていない。でも、この言葉だけが飛び込んできた。
「もうなんとなくわかったかな?まさかね〜私たちもみんなびっくりしたんです。だってまだ21歳だし、まさかね、ガンだなんて・・。お気持ちはわかります、泣いていいです。でもちゃんと私が責任持って切りますから・・・」
そこから先がまたひどかった。
4日後にまた手術します、と言う。
やっと術後の痛みから解放されて、今日から食事も始まったのに?
また手術?
そして12月30日、手術を受ける。
手術内容は胃を全摘出、および、胆嚢、脾臓も摘出。
術後、ドクターから胃は5分の1ほど残り、
脾臓も残りました、とのこと。
家で迎えるはずだった大晦日は、術後の痛みのピークで最悪の大晦日になり、元旦は、病棟のほとんどの人が家に帰っているため、シーンとした病室で迎えた。
去年はクリスマスもお正月も絶食だったため、
おいしい物はなに一つ食べれなかった、
それどころか、退院後は、胃が無くなった影響で、食事も全く出来ず、大変だった。
12月18日、まさかあの時の入院が、胃が無くなって退院することになるなんて、その日の私は知るはずも無かった。
この時期になると、あのめまぐるしかった年末を思い出さずには居られない。
12月に入っても地面が見えていた。
これからチラチラ降り出したとしても、
積もるまでには結構時間がかかるし、
今年は1ヶ月分くらい得したな〜なんて思っていたら、10日前後に突然ガバっと降ってきて、あっという間に例年と変わらない雪景色になった。
結局、対した得はしてなかったみたいだ。
去年もこうだった、こんな風に寒かった。
嫌でもよみがえってくる。
ちょうど一年前の昨日、12月18日に、私は生まれて初めて手術を受けて、生まれて初めて入院した。
病院を4件回って、やっと手術を受けた。
夜中に救急車で運ばれた一件目の救急病院では風邪だと言われた。
その病院は、お腹が痛くてケイレンして動けない私を追い出した、
とてもじゃないけど、激痛で全く身動きのとれない私は家に帰ることなんて出来なくて、近所の病院が始まるまで、4時間ほど友人の車の中で待った。
やっと朝になり、病院が開いたけど、今度は車から降りれない。少しでも動こうとすると激痛が走って叫ばずにはいられない。
友人とドクターと看護婦2人の4人がかりで
支えてもらって診察室に入り、注射2本、これ以上の処置はここでは出来ない、との事、
紹介状を書いてもらい、次の病院に入院するようにと言われ、移動。
3件目の病院へ着いてすぐ、入院手続きをして、パジャマを着せられ、レントゲンとCTを受ける。
撮影が終わったとたんにドクターが出てきて、
まだCTの機会に寝転がっている私に
「いますぐ手術をうけないといけないから、次の病院へ移動します。」と言う。
とにかく大急ぎで移動しないといけないとの事で、説明は救急車の中でします、と言う。
救急車の中でやっとドクターの説明があり、胃に穴が開いたらしく、腹膜炎を起こしている、腹水も溜まっているので、今すぐ開腹して
処置が必要だ、との事。
何がなんだかわからない。
家族も仕事に出ていて連絡が取れない、
ドクターがしつこく電話をかけて、何とか母が手術の直前に到着した。
そこから先はひどかった。
ただの胃穿孔だと聞かされていた私は、
年内に退院出来ると思って、術後の痛みにも何とか耐えて入院生活を楽しんでいた。
1週間後の12月26日、ドクターに呼ばれる。退院が決まったのだろうか。
それにしても、わざわざそんなことでドクターが患者を呼び出すわけがない。
母も一緒に、詰め所に入った。
ドクターが話し出す。
聞いているうちに、言わんとしていることは伝わってきた。
でも、まさか・・・そんなバカなことがあるわけない。半信半疑でドクターと母の顔をかわるがわる見る。母は無表情で、まっすぐ前を見ていて、私の顔を見ようとしない。
ドクターは下ばかり見て目を合わせてくれない。ひとりで一瞬のうちにいろんな事を巡らせていたので、ドクターが何を話していたか、あんまり覚えていない。でも、この言葉だけが飛び込んできた。
「もうなんとなくわかったかな?まさかね〜私たちもみんなびっくりしたんです。だってまだ21歳だし、まさかね、ガンだなんて・・。お気持ちはわかります、泣いていいです。でもちゃんと私が責任持って切りますから・・・」
そこから先がまたひどかった。
4日後にまた手術します、と言う。
やっと術後の痛みから解放されて、今日から食事も始まったのに?
また手術?
そして12月30日、手術を受ける。
手術内容は胃を全摘出、および、胆嚢、脾臓も摘出。
術後、ドクターから胃は5分の1ほど残り、
脾臓も残りました、とのこと。
家で迎えるはずだった大晦日は、術後の痛みのピークで最悪の大晦日になり、元旦は、病棟のほとんどの人が家に帰っているため、シーンとした病室で迎えた。
去年はクリスマスもお正月も絶食だったため、
おいしい物はなに一つ食べれなかった、
それどころか、退院後は、胃が無くなった影響で、食事も全く出来ず、大変だった。
12月18日、まさかあの時の入院が、胃が無くなって退院することになるなんて、その日の私は知るはずも無かった。
この時期になると、あのめまぐるしかった年末を思い出さずには居られない。
その気になればいい、その気になれるか。
2003年12月17日今年最後の休日が終わった。
明日からしばらく仕事づけだ。
今日近所のホテルでランチを食べた、
そこのチーフシェフはアラブ系の男性だった。
こっちに寄ってきて片言の日本語で積極的に
自信作の料理を勧めて、強引に皿に乗せてくる。
なんか、いいな〜。
あんな大きなホテルで、たくさんの
人に自分の作品を食べてもらう。
彼が仕事を好きなんだって事が、何だかすごく
伝わった。
そういう人は、そんなオーラを出している。
自分はどう見えるだろう。
お客さんの目にどう映るだろう。
きっとあのシェフのようなパワーは
誰も感じないだろう。
仕事をするために生きてるわけじゃない。
でも生きるためだけに仕事をするのも
本当は何か足りない。
私も仕事に夢中になった時期があった。
それがカッコいいと思ったし、
有意義なことだと思った。
でも、どんなに気持ちがあっても
思い通りには前に進めない。
希望を持てば失望を見る。
そして疲れ果てて、すべてが空しさに変わる。
その繰り返しの中で、
敬意や目標は何も生み出さない、
そんな結論を自分の中に知らずに出していた。
上司を信頼すれば、いつかそれは逆恨みに変わり、自分を追いつめる。
それが私の弱さだった。
いつの間にか仕事に情熱をいっさい持たない人間になっていた。
でも我に返ると、それが何とも悲しく、
今となって思えば、貧弱な精神が
まざまざと見える。
今の自分が抱える課題がはっきり
見えてくる。
解決はいつ見つかるだろう。
時間をかけて見つけられるだろうか。
きっとみんな越えている道なのに、
私はまだ越えられない。
未熟さがどんどん見えてくる。
明日からしばらく仕事づけだ。
今日近所のホテルでランチを食べた、
そこのチーフシェフはアラブ系の男性だった。
こっちに寄ってきて片言の日本語で積極的に
自信作の料理を勧めて、強引に皿に乗せてくる。
なんか、いいな〜。
あんな大きなホテルで、たくさんの
人に自分の作品を食べてもらう。
彼が仕事を好きなんだって事が、何だかすごく
伝わった。
そういう人は、そんなオーラを出している。
自分はどう見えるだろう。
お客さんの目にどう映るだろう。
きっとあのシェフのようなパワーは
誰も感じないだろう。
仕事をするために生きてるわけじゃない。
でも生きるためだけに仕事をするのも
本当は何か足りない。
私も仕事に夢中になった時期があった。
それがカッコいいと思ったし、
有意義なことだと思った。
でも、どんなに気持ちがあっても
思い通りには前に進めない。
希望を持てば失望を見る。
そして疲れ果てて、すべてが空しさに変わる。
その繰り返しの中で、
敬意や目標は何も生み出さない、
そんな結論を自分の中に知らずに出していた。
上司を信頼すれば、いつかそれは逆恨みに変わり、自分を追いつめる。
それが私の弱さだった。
いつの間にか仕事に情熱をいっさい持たない人間になっていた。
でも我に返ると、それが何とも悲しく、
今となって思えば、貧弱な精神が
まざまざと見える。
今の自分が抱える課題がはっきり
見えてくる。
解決はいつ見つかるだろう。
時間をかけて見つけられるだろうか。
きっとみんな越えている道なのに、
私はまだ越えられない。
未熟さがどんどん見えてくる。
今日の日記
2003年12月16日本が読みたい。
最近すごく本が読みたい。
そろそろ部屋にある本も読む物がなくなってきたから、何か買わないといけないかな〜。
本が読みたくなるときは、たいてい何かから逃げたい時だ。
誰かがお酒を飲んだり、パチンコをしたりするように、私は本を読む。
そんな時読む本はあんまり考え込まなくていいものじゃないと絶対だめだし、だからといって
つまらないものはすぐに飽きてしまう・・・。
三浦綾子という作家がいる。氷点や塩狩峠を書いた人だ。彼女の本が好きだ。
高校のころから好きで読んでいたけれど、
ある時、読めなくなった頃があった。
彼女の本を読むと、あまりにリアルな生身の人間の姿が描かれていて、「何もそこまで書かなくても・・・」と思ってしまう。
架空の人物には本物の人間ほどの汚さや傷を負って欲しくない、と私は知らずに思っている。
架空の小説でまでも、現実と同じゆがみや重み
を味わわなければならないなら、リラックスするための読書にはならないからだ。
自分が小説を書いたら、きっと私は「色々あったけどハッピーエンド」的なものを書くでしょう。
結局私は逃げる。
真意をついたあまりにも等身大な世界は、何か自分の心の中をえぐって、さらすような気がして出来ない。
事実や現実を認めた上で、それを語るというのは、きつい作業だ。
でも三浦綾子にはそれができた。
彼女は逃げない人なのだ。
向き合う人だ。
だからこそ書き続けられたんだろう。
最近すごく本が読みたい。
そろそろ部屋にある本も読む物がなくなってきたから、何か買わないといけないかな〜。
本が読みたくなるときは、たいてい何かから逃げたい時だ。
誰かがお酒を飲んだり、パチンコをしたりするように、私は本を読む。
そんな時読む本はあんまり考え込まなくていいものじゃないと絶対だめだし、だからといって
つまらないものはすぐに飽きてしまう・・・。
三浦綾子という作家がいる。氷点や塩狩峠を書いた人だ。彼女の本が好きだ。
高校のころから好きで読んでいたけれど、
ある時、読めなくなった頃があった。
彼女の本を読むと、あまりにリアルな生身の人間の姿が描かれていて、「何もそこまで書かなくても・・・」と思ってしまう。
架空の人物には本物の人間ほどの汚さや傷を負って欲しくない、と私は知らずに思っている。
架空の小説でまでも、現実と同じゆがみや重み
を味わわなければならないなら、リラックスするための読書にはならないからだ。
自分が小説を書いたら、きっと私は「色々あったけどハッピーエンド」的なものを書くでしょう。
結局私は逃げる。
真意をついたあまりにも等身大な世界は、何か自分の心の中をえぐって、さらすような気がして出来ない。
事実や現実を認めた上で、それを語るというのは、きつい作業だ。
でも三浦綾子にはそれができた。
彼女は逃げない人なのだ。
向き合う人だ。
だからこそ書き続けられたんだろう。
年末。
2003年12月6日気がつけばもう12月です。
長いこと日記を書いてませんでした。
なんか、書けなかった。
札幌もとても寒くなってきた。
今年は積雪が遅いけど、油断していたらあっという間にドサッと降ってくるんだろう・・・。
音楽のの特番とかやってるのを見ると、年末か〜と実感する。
早いもので、手術から一年がたつ。
おかげさまで体の方は順調らしい。
今年の反省と来年の抱負をそろそろ考えよう。
そういう時期だから。
私は行事が好きらしい。
だからと言って騒いだり何か特別なことを
するほどの行動力はない。
ただ心の中で、その行事を思って
自分の世界に浸るのが好きなだけだ。
長いこと日記を書いてませんでした。
なんか、書けなかった。
札幌もとても寒くなってきた。
今年は積雪が遅いけど、油断していたらあっという間にドサッと降ってくるんだろう・・・。
音楽のの特番とかやってるのを見ると、年末か〜と実感する。
早いもので、手術から一年がたつ。
おかげさまで体の方は順調らしい。
今年の反省と来年の抱負をそろそろ考えよう。
そういう時期だから。
私は行事が好きらしい。
だからと言って騒いだり何か特別なことを
するほどの行動力はない。
ただ心の中で、その行事を思って
自分の世界に浸るのが好きなだけだ。
今日の日記
2003年11月30日冷蔵庫に長いこと入れっぱなしにしていたスイートポテトにカビが生えていた。
あまりに量が多かったので、捨てるに捨てられず、冷蔵庫にいれっぱなしにしていたからだ。
覚悟を決めてごっそりあるスイートポテトをゴミ箱に入れたら、フタが閉まらないくらいずっしりとなってしまった。
なんでこんなに貯め込んでしまったんだろう。
これが私の生き様だというのを実感した。
いらなくなった物も捨てられずに、おきっぱなしにしていくうちに、カビが生えていくのだ。
そうしてこの体はどんどん腐っていった。
だから私は雨が嫌いだ。湿気の中にいると、自分の中のカビが繁殖しそうな気がして心配だからだ。
なるべく日差しと空っ風の中で乾燥させて
体を乾かしたいのだ。
何もかもうまくいく日がいつか来ると信じることはバカげて居るだろうか。
それとも、こんなものだと諦めて、たいしたことはないさ、と開き直って生きることの方が
バカげているんだろうか。
どっちがいいかと右往左往していることがバカげている。
無意味なものを無駄と思うか徳と思うかは
その人次第。
あまりに量が多かったので、捨てるに捨てられず、冷蔵庫にいれっぱなしにしていたからだ。
覚悟を決めてごっそりあるスイートポテトをゴミ箱に入れたら、フタが閉まらないくらいずっしりとなってしまった。
なんでこんなに貯め込んでしまったんだろう。
これが私の生き様だというのを実感した。
いらなくなった物も捨てられずに、おきっぱなしにしていくうちに、カビが生えていくのだ。
そうしてこの体はどんどん腐っていった。
だから私は雨が嫌いだ。湿気の中にいると、自分の中のカビが繁殖しそうな気がして心配だからだ。
なるべく日差しと空っ風の中で乾燥させて
体を乾かしたいのだ。
何もかもうまくいく日がいつか来ると信じることはバカげて居るだろうか。
それとも、こんなものだと諦めて、たいしたことはないさ、と開き直って生きることの方が
バカげているんだろうか。
どっちがいいかと右往左往していることがバカげている。
無意味なものを無駄と思うか徳と思うかは
その人次第。
今日の日記
2003年11月26日前の会社の時の先輩とご飯をたべた。
彼女ももう会社を辞めて、今は休業中。
人生にそんな時間があっても良いと思う。
2人で思い出話をすると、何ともなつかしさがこみ上げた。社会の汚さを私に教え、あんなにストレスを貯めた、あの会社での日々が、懐かしい。
信頼と失望と劣等感、そんなものがいつも頭の中を巡っていた日々だった。
今の会社には何も期待せずに入った。
いや、少しは期待していたかも知れない。
でも期待の行く先には失望がある、それを教訓として新しい会社に臨んだ。
だから人と近づくことをあえて避け、常に半信半疑で人と接する毎日。
人の表と裏を見極める事に集中して、信頼より
批判ばかりを考えて、守りに入っている。
立場の確保はさほど重要な事じゃない。
必要なのは心を凍らせること、
冷たくして麻痺させて、何かあっても傷つかな
いように守っている。
こんな自分がたまにむなしく悲しい。
どんどん心が凍っていくのがわかる。
人間の原点から外れていくのがわかる。
こうしなきゃ自分を守れない自分。
本当はもっとまっすぐ情熱をもって、仲間を持って仕事をしたいのだ。
ぶつかり合ってもいいから、分かり合って、
励まし合って、お互いを延ばしていける、
そんな仲間が欲しい。
でも、この会社にそんな人はいないと諦めて
人の人格を見る事をしないようにしている。
そんなものは無意味だとささやく自分がどこかにいて、どんどん心を冷却していく。
でも自分の本心に気づく時、努力を怠っている自分を見て、この先どうしたらいいのかと
途方に暮れてしまう。
こんな人生じゃきっと私はだめになるだろう。
守りに入って、向き合うべき物を見ないで生きていたら、凍ったままの心は成長もせず
かちかちのまま時が過ぎてしまう。
レトルト食品にも消費期限がある。
いつまでも冷凍はしておけないのだ。
冷凍は保留状態なだけ。
いつかは解除して、先へ進むのだ。
心がボロボロになるかも知れない。
過去の傷がまた痛み出すかも知れない。
今でもたまに溶け出した心が痛むことがある。
そのたびにあわてて、冷却装置が作動する私のこのシステム。
立ち向かう覚悟を早く持ちたい。
とことん悩んで、傷の痛みをとことん感じて、
癒していかなければ、いつまでも
冷凍していても、解決はない。
タイムリミットが迫ってきた。
信じて踏み出せ、たとえ暗闇を歩んでも、手探りするためにこの手があるなら。
苦しみ無くして人生は語れない。
彼女ももう会社を辞めて、今は休業中。
人生にそんな時間があっても良いと思う。
2人で思い出話をすると、何ともなつかしさがこみ上げた。社会の汚さを私に教え、あんなにストレスを貯めた、あの会社での日々が、懐かしい。
信頼と失望と劣等感、そんなものがいつも頭の中を巡っていた日々だった。
今の会社には何も期待せずに入った。
いや、少しは期待していたかも知れない。
でも期待の行く先には失望がある、それを教訓として新しい会社に臨んだ。
だから人と近づくことをあえて避け、常に半信半疑で人と接する毎日。
人の表と裏を見極める事に集中して、信頼より
批判ばかりを考えて、守りに入っている。
立場の確保はさほど重要な事じゃない。
必要なのは心を凍らせること、
冷たくして麻痺させて、何かあっても傷つかな
いように守っている。
こんな自分がたまにむなしく悲しい。
どんどん心が凍っていくのがわかる。
人間の原点から外れていくのがわかる。
こうしなきゃ自分を守れない自分。
本当はもっとまっすぐ情熱をもって、仲間を持って仕事をしたいのだ。
ぶつかり合ってもいいから、分かり合って、
励まし合って、お互いを延ばしていける、
そんな仲間が欲しい。
でも、この会社にそんな人はいないと諦めて
人の人格を見る事をしないようにしている。
そんなものは無意味だとささやく自分がどこかにいて、どんどん心を冷却していく。
でも自分の本心に気づく時、努力を怠っている自分を見て、この先どうしたらいいのかと
途方に暮れてしまう。
こんな人生じゃきっと私はだめになるだろう。
守りに入って、向き合うべき物を見ないで生きていたら、凍ったままの心は成長もせず
かちかちのまま時が過ぎてしまう。
レトルト食品にも消費期限がある。
いつまでも冷凍はしておけないのだ。
冷凍は保留状態なだけ。
いつかは解除して、先へ進むのだ。
心がボロボロになるかも知れない。
過去の傷がまた痛み出すかも知れない。
今でもたまに溶け出した心が痛むことがある。
そのたびにあわてて、冷却装置が作動する私のこのシステム。
立ち向かう覚悟を早く持ちたい。
とことん悩んで、傷の痛みをとことん感じて、
癒していかなければ、いつまでも
冷凍していても、解決はない。
タイムリミットが迫ってきた。
信じて踏み出せ、たとえ暗闇を歩んでも、手探りするためにこの手があるなら。
苦しみ無くして人生は語れない。
今日の日記
2003年11月24日仕事上、朝が早い私は早く眠ることがなかなか出来ず、飲んでいたレンドルミンがなくなったこともあって、最近少々のお酒を飲むようになった。
お酒はあまり好きな方じゃない。
でもお酒を飲むと眠れる。ただ、酔っぱらってるわけでもないのに、前の日、何時に寝たか、いつ部屋に行ったのか、そんあことの記憶もなくなっている。
少量しか飲まないのに。
お酒の怖さをここで少し知り、余計お酒が嫌いになった。
でも眠るために飲む。
今日はレンタルビデオで8mileとエニグマを借りてきた。8mileは今見終わったが、青春もの?なんだろうか。
最近そういうものに興味がなくなっていたけど、これはまぁまぁ見れた。
人と人が興味を持ち合う上で、決定的な要素は何か・・・。
境遇が似ている、経験が似ている、感覚が似ている。よく聞く話だ。
似ていない、と言うのも良く聞く話。
では要素なんて無いんだろうか。
好みは年齢とともに変化していくもののような気がする。
小さい頃はクールな人が好きで、口に出さない優しさとか、そういったものに憧れていた。でも今は、クールな人は嫌だと思う。
口に出さなきゃ何もわからない。
口に出してもわからないことは多いんだから、
黙っていてはわかるわけが無いと思う。
伝えようとしない人とはわかり合えない、
わかり合おうと思うこと自体無駄になる。
そんな風に心が冷却されてきた私。
強くなると言うことは、温かさを身につける、
同時に冷淡さも身につけるのだ。
暖かい人は、冷たさも持っている。
すごく冷たいと言われる人と、すごく暖かいと言われる人は、きっと同じなんだと思う。
どっちを信念に生きるかが違うだけだ。
百円玉の表を向けて生きても、裏を向けて生きても、百円玉であることは同じで、一円玉では無いのだ。
そのことに気づいていない人は多すぎる。
気づくことが良いことなのか、気づかない事が良いことなのか、それもまたそれぞれの考え方次第、結局、白黒つかないことがほとんどで、
白黒つけたがる私は、なんだか人生を無駄にしているような気がしてしまう。
もっと力を抜いて、踏ん張らずに生きればいいのに。
お酒はあまり好きな方じゃない。
でもお酒を飲むと眠れる。ただ、酔っぱらってるわけでもないのに、前の日、何時に寝たか、いつ部屋に行ったのか、そんあことの記憶もなくなっている。
少量しか飲まないのに。
お酒の怖さをここで少し知り、余計お酒が嫌いになった。
でも眠るために飲む。
今日はレンタルビデオで8mileとエニグマを借りてきた。8mileは今見終わったが、青春もの?なんだろうか。
最近そういうものに興味がなくなっていたけど、これはまぁまぁ見れた。
人と人が興味を持ち合う上で、決定的な要素は何か・・・。
境遇が似ている、経験が似ている、感覚が似ている。よく聞く話だ。
似ていない、と言うのも良く聞く話。
では要素なんて無いんだろうか。
好みは年齢とともに変化していくもののような気がする。
小さい頃はクールな人が好きで、口に出さない優しさとか、そういったものに憧れていた。でも今は、クールな人は嫌だと思う。
口に出さなきゃ何もわからない。
口に出してもわからないことは多いんだから、
黙っていてはわかるわけが無いと思う。
伝えようとしない人とはわかり合えない、
わかり合おうと思うこと自体無駄になる。
そんな風に心が冷却されてきた私。
強くなると言うことは、温かさを身につける、
同時に冷淡さも身につけるのだ。
暖かい人は、冷たさも持っている。
すごく冷たいと言われる人と、すごく暖かいと言われる人は、きっと同じなんだと思う。
どっちを信念に生きるかが違うだけだ。
百円玉の表を向けて生きても、裏を向けて生きても、百円玉であることは同じで、一円玉では無いのだ。
そのことに気づいていない人は多すぎる。
気づくことが良いことなのか、気づかない事が良いことなのか、それもまたそれぞれの考え方次第、結局、白黒つかないことがほとんどで、
白黒つけたがる私は、なんだか人生を無駄にしているような気がしてしまう。
もっと力を抜いて、踏ん張らずに生きればいいのに。
ひさびさにCDを購入。
2003年11月16日KOKIAのアルバムを買った。まだちょっとしか聴いてないけど、たまには気分を乗せるためにお金使うのもいいかなーと・・・。
仕事をするのがずっと嫌だった。
やりたくて始めた仕事だったのに、疲れ切って不満ばかりで、やる気が起きなかった。
でも、ある時、昔の仲間に会った。
目標をもって共に頑張っていた大事な仲間だ。その人は前と変わらず、前向きに今するべき事をやっていた。好きな仕事をしているから、忙しくても楽しいんだ、と伝わってきた。やる気をなくして卑屈になっている私とは正反対だった。
その人を見ていて、私はなんだか忘れかけていたものに気づいたのだ。
そして次の日から、なにかを思い出すように
元気に楽しく仕事を始めた、前向きにやっていくこと、私はそれが少し苦手かもしれない。
言い訳をしたり、誰かのせいにするほうが楽だからだ。堕落しきっている。
だけど前向きに充実した生活を送ることの第一歩は、出来ることを出来るだけでいいから、
確実にやることなんだ。「これ以上でもこれ以下でもない、等身大の自分」その人の口癖だった。この言葉の意味、すこしわかるような気がしている。
仕事をするのがずっと嫌だった。
やりたくて始めた仕事だったのに、疲れ切って不満ばかりで、やる気が起きなかった。
でも、ある時、昔の仲間に会った。
目標をもって共に頑張っていた大事な仲間だ。その人は前と変わらず、前向きに今するべき事をやっていた。好きな仕事をしているから、忙しくても楽しいんだ、と伝わってきた。やる気をなくして卑屈になっている私とは正反対だった。
その人を見ていて、私はなんだか忘れかけていたものに気づいたのだ。
そして次の日から、なにかを思い出すように
元気に楽しく仕事を始めた、前向きにやっていくこと、私はそれが少し苦手かもしれない。
言い訳をしたり、誰かのせいにするほうが楽だからだ。堕落しきっている。
だけど前向きに充実した生活を送ることの第一歩は、出来ることを出来るだけでいいから、
確実にやることなんだ。「これ以上でもこれ以下でもない、等身大の自分」その人の口癖だった。この言葉の意味、すこしわかるような気がしている。
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